98/12/26(土)
朝の二二八紀念公園
今日は、故宮博物院へ行く予定であったが、ホテルで食事を済ませ、朝まだ早かったので歩いて二二八紀念公園へ行くことにした。二二八とは228事件のことで、第二次世界大戦後の国民党政府の粛清下、台湾で行われた代表的な事件である。約一ヶ月の間に数万人にものぼる一般人の命が奪われたとか。この数は、1ヶ月という短い期間にもかかわらず日本が統治した半世紀間の犠牲者を凌いでいるそうである。別に日本統治を肯定するつもりは毛頭ないが、ここら辺りが、逆に本省人の親日感につながっている気がする。しかし、穏やか、かつ親切な台湾の人々が背負ってきた歴史は本当に重く暗いものばかり。ちなみに、余りにも国民党の腐敗や粛清がひどいので、アメリカは一旦国民党を見限り、肩入れを止めている。そして、国民党は中共との内戦で敗れ台湾に逃げ込む。しかし、朝鮮戦争の勃発で、東側社会との対立が鮮明となると、アメリカは慌ててアメリカ軍を派兵して台湾が共産主義化されるのを防いだとか。もし、アメリカがこの時、派兵していなければおそらく台湾も中国共産党の統治下に置かれ今の台湾もなかったことであろう。台湾の人々は、いつも大陸や日本からの外来政府に統治され本当に気の毒な人々だということもできるかもしれない。10年ほど前に戒厳令は解かれ、民主化はやっと進んだが...。語弊があるかもしれないが、ちょっと日本の沖縄の立場にも似ている気がする。ちなみにこの知識、旅行に行く前に読んでいった台湾の歴史本の受け売りである。著者の母親は台湾人だそうで半分日本人半分台湾人のよう。
話がそれたが、公園内を散歩すると、人々が新聞を読んでいたり、太極拳を楽しんでいたりとのんびりした雰囲気だった。そんな中で、年が65歳ぐらいのおばあちゃん3人が日本の唱歌を合唱していたのが印象的であった。
二二八紀念公園から新光摩天楼を望む。高さは244.1m地上51階建て
故宮博物院
時間も10時近くになったので故宮博物院へ行くことにする。台北の故宮博物院といえば世界4大博物館の一つに数えられる博物館。なぜ、台北にあるかといえば、日中戦争で日本に略奪されるのを恐れた国民党政府は、財宝を南部の田舎へ分散させて疎開させたとか。戦後、中共との内戦で敗色が濃くなると特別列車を編成し、さらに船で台湾に持ち込んだとか。どうやら、厳選されたお宝のみが台湾へ持ってこられたようで、北京の故宮博物院は大した物がないという話を聞いたことがある。
MRTで士林站まで行きそこからタクシーに乗った。MRTはどこだかの新路線が開通したようで、全線20元の特別価格であった。また、タクシーは旧メーターのままで、すべて一律20元加算となっていた。故宮博物院までは約100元(400円)であった。
博物館は凄い規模であった。一つ一つの財宝が世界に誇れるような凄い逸品。3ヶ月だったかで展示品が変わるそうだがそれでも全部一回りするそうに12年かかるとか。その総数たるやいったいどれほどの価値かと、中国の歴史の長さ、その文明の大きさに圧倒される思いだった。
圧倒される規模の故宮博物院
一通り見終わり、帰りのタクシーを捕まえようとすると、博物館正面でたむろっている運転手から声をかけられた。「300元だお茶は要らないか。」と日本語で声をかけてくる。300元とは正規の約3倍の料金である。「不要!」と北京語で返答し、なんとか流しのタクシーを捕まえた。故宮博物院前でたむろっているタクシーはぼったくりで、日本人は絶好のカモのようで、気をつけた方がいいようだ。大体、ぶらぶらたむろっていてやっていけるということは、ぼったくって荒稼ぎしているとも考えられる。流しのタクシーのほうがまだぼったくられる確率は低いんではないだろうか。捕まえたタクシーの運転手は感じのいい人で、英語が少しできた。そこで、ぼったくられたことなどを話すと笑っていた。北京語を教えてもらったり、いろいろ世間話をした。親切だし気に入ったので、降りるときにお釣の5元(約20円)をチップだといって受け取らなかったら、大きな声で「Thank
you!」と返ってきた。気持ちよかった。
台北站付近に戻り、町角の食堂に入って昼食を食べた。セルフサービスだったのだが、よく分からずうろうろしていると、お客さん皆で指を差して教えてくれた。日本じゃ考えられないことで、本当に台湾の人は親切だと感じた。いろいろ食べたが、大体1食(料理)60元(約240円)程度と安くておいしかった。
中正紀念堂へ
昼食の後は、中正紀念堂へ行くことにした。これは中正(蒋介石:チャン カイシェク)を記念して立てられた記念館とのこと。街を歩いていくとまず景福門(東門)があり、李登輝総統の写真が掲げられていた。李登輝といえば、まだ彼が日本人であった頃、京都大学で学び、戦後はアメリカに渡り、農学博士の称号をとった学者出身の政治家だそうである。本省人として初めて総統になり、民主化を進めたという事である。ちなみに彼は北京語より日本語がうまいという話もあながち嘘ではないのかもしれない。
李登輝の写真が掲げられた景福門
中正紀念堂は、広大な敷地の中に大きな建物が建っている。前の広場は台北市民の憩いの場のようで、人々が凧上げしたり、ローラースケートしたりとのんびりと休日を楽しんでいた。
中正紀念堂前の巨大な門[左] 敷地内は市民の憩いの場[右]
巨大な紀念堂
紀念堂前の階段は蒋介石が89歳で死んだことにちなんで89段となっているとか。階段を上り、中に入るとちょうど15:00だったためセレモニーが行われていた。銃器を持った兵士が蒋介石の巨大な像を警護していて普段は微動だにしないのだが、1時間毎にセレモニーを行うようである。非常に物々しいセレモニーだった。蒋介石の像の前で偉業をたたえ、国家に忠誠を誓うという感じであるが、蒋介石自身の存在はおそらく台湾人にとって忌々しい存在であろうから、人々はどんな気分でこのセレモニーを見ているのだろうか。ちなみに彼の名前はお札、空港名など台湾のいたるところで目にする。
蒋介石像前でのセレモニー[左] 普段、銃を持った警護兵は微動だにしない[右]
こういった国家のあり方はなんとなく共産主義国家を彷彿させる。実際、国民党は反共で今でも共産主義の文献などを台湾に持ち込むことはできない。しかし、蒋介石は後の総統となる息子の蒋経國をソビエトに留学させているし、例えば以前の台湾の秘密警察はソ連のKGBそっくりの組織だったとか。ソビエト共産党をモチーフにしていたことはどうやら本当のようである。
その後ホテルに戻り、一休みしてから小吃で夕飯を食べた。注文は紙に書き下して行った。小姐が、料理をもって近づいてきた。自分のか分からないので、注文したときの書き下した料理名を見せると「對對對!(そうだそうだそうだ)」と北京語で言って、ちょっと笑みを浮かべて置いていった。